昨日は、「父の日」でしたね。
夕方のTVサザエさんにも、「父の日」ネタが登場してました。
そんな父の日に、わが家も贈りものをしました。
大阪で一人暮らしをしている父に。
妻からの提案
「いつもしてもらってばかりやから、おじいちゃんに何か送らない?」
先週の半ばくらい。妻が僕に1つの提案をしてきました。
いつも僕の父は、大阪から荷物を送ってくれます。ペースにして、だいたい月1回。
僕たちの好きな食べ物を段ボールに詰めて、ゆうパックで送ってくれます。
父:「もうすぐ送る時期やけど、今回は何にする?」
僕:「まだ、早いからええで」
こんな会話が月末になるたび、電話で繰り返されているんです。
そんな父に、何かお返しをしようよ。
こんな時くらいしか、中々できへんし。
っていう妻の提案でした。
そこで、僕たちが「父の日」のプレゼントに選んだのは、鰹のタタキ。
シャツやジャケット、靴下といった衣類系は、今までにも何度も送っています。
父がもらって1番実用的なモノ。
そんなこととかも考えて、食べ物。
しかも、調理する必要がない。届いたらそのまま切れば食べられる、鰹のタタキを送りました。
土曜日の夜。19:50。
わが家に1本の電話が鳴りました。
父からです。
「ありがとう。タタキ、届いたわ。
おかげさんで、今食べさせてもらったとこやわ」
「そう、無事に届いたんやね。
いっつも送ってもらってばかりやし、食べといて」
父からの言葉に返す僕。いつも同じ感じで、ちょっと素っ気ない2人の会話です。
何をしゃべっていいのか分からないし。お互いちょっと遠慮しながらね。
しかし、この後、父が話したひと言で僕の心は一気にざわつくのです。
問題点、発生
その時、父が言った言葉はこんな感じです↓。
「全部食べ切られへんし、残りのは冷凍させといてもらうわ。
また大事にして食べさせてもらうわ」
鰹のタタキを贈りものにするときって、節で送られるんですね。
切った状態じゃなくて、1本の身の塊(これを節と呼ぶ)で。
届いたあと、食べる前に、包丁で切る。
1人暮らしの父には、その1つの節は大きかったようで。
半分くらい食べて、残りは冷凍しておいてまたのときに食べるわ、と。
…こうして聞くと、ごく普通の話に聞こえるかもしれないんですが、この今の話の中には1つの問題があって。
「冷凍」、ここにちょっと引っかかる部分があるんです。
(特に、高知の人たちからすれば、、、)
高知の鰹のタタキといえば、その1番ウリは新鮮さから生まれる美味しさなんですね。
そして、その美味しさっていうのは、どこから生まれるか?
というと、獲れた鰹をナマで焼いて、そのまま(冷凍せずに)送る。というところなんです。
「生鰹のタタキ」というのが1つのポイントなんですね。
だから僕も父に送るときは、「生」のタタキを選んで送ったんですね。
ただしかし、今回の父には、そんなの関係なかったみたいです。
僕たち(土佐の人)の中に当たり前のようにある、
【鰹のタタキ】=【生が美味しい】
は、父にはなかったようです。
むしろ、父の中にあったのは、
【鰹のタタキ】=【冷凍(で保存するモノ)】
といったイメージでした。
意外と伝わっていないことは多い
僕たちモノを売る側の人間にとっては当たり前のこと。
それがお客さまにとっては、そうじゃないというケースは意外と多いです。
今回の父のように、身近に接している(食べている)商品であっても、、、です。
「土佐の鰹のタタキ」にとっての価値の1つは、「ナマ」。
冷凍モノもあるのですが、高知の人はどちらが美味しいか?
明らかに分かっています。
居酒屋の料理で、美味しくない鰹がでてきたりすると、
「ここの店、冷凍の鰹使ってるんちゃうか?」
みたいな話をするくらいです。
でも僕の父は、大阪の人間。
その鰹の価値は、頭になかったようで(少なくとも何度も鰹を食べている人間なのに)。
こんな一件があるたび、ますます感じます。
手書きPOPの必要性は、どんどん高まっているのではないでしょうか?
お客さまに商品の本当の価値を伝えるという意味でも、ね。
僕の親父のような人間に、鰹のタタキの価値(美味しい食べ方)を伝える。
こんな時こそ、手書きPOPの出番ではないでしょうか。